接骨、ほねつぎがなくなった日! 接骨院・整骨院の先生には、ぜひ知って欲しい。柔道整復術として公認された経緯
柔道整復師という資格は、大正9年4月21日に当時の内務省令によって初めて「柔道整復術」という名称で公認されました。
それまで接骨という技術は、数百年にわたり受け継がれていましたが、明治7年の医政発布以降、国から法的には認知されない状況になり、ほねつぎ、接骨が消滅する危機を迎えたのです。
明治16年には、医制制定の一環として「医師免許規則」及び「医術開業試験規則」が公布され西洋医師の資格と開業権の確立とともに明治維新以降も接骨業を営んでいた接骨家も医術開業試験規則に従って試験に合格し「接骨科医術開業免状」が下附された者に限り営業が許されることになりました。
しかし、これは「従来接骨術」として一代限りに認められた特例措置でしたのでこの時に開業免状を取得できなかった者が、その後に取得するということはできない状況でした。
明治44年には按摩術営業取締規則が発令され、按摩術については身分と業務が法的に認知されましたが、逆にその頃から接骨家に対する取り締りが厳しくなり、大正元年には一代免許を持たない接骨家の一斉検挙が実施され接骨業を営む無資格者とされた者が少なからず摘発されました。
当時柔術・柔道家の多くは柔術・柔道指導だけでは生計を営むことが難しくなり、接骨業を国に認めてもらうことで自分たちの道場経営も維持できるようになるのではないかと期待したのです。
こうした背景のもと接骨業の公認を目的とし、大正2年1月に帝国議会請願の草案が完成しましたが、その作成に当たり中心となったのが当県出身の萩原七郎先生でした。
しかし、運動開始の段階になり、講道館を中心に少しずつ増えてきた柔道道場の運営の傍ら接骨業を営む柔道家と旧来の柔術家を含めた全体を結集させようとした萩原先生の意見と天神真楊流柔術の師範または「天神真楊流目録に該当」する者に限定して接骨を認めるべきであるとする意見の二派に分かれてしまいました。
萩原先生は接骨術の法制化のためには柔道の町道場の強い結束と団結が必要と考え、師匠である加納治五郎先生に協力を求めたと思われます。
二派の対立の溝はなかなか埋まりませんでしたが、萩原先生の努力により20数名の賛同者をなんとか得ることができ柔道接骨術公認期成会を発足させました。
当時先生は、33歳の若さであり本部は、萩原先生のご自宅でした。
その際の期成会会長には、従来接骨術の竹岡宇三郎先生、副会長には同じく従来接骨術の市川歛先生が就任し萩原七郎先生は、常任委員として実働を担当することになりました。
そうして帝国議会に対し公認に向けた請願運動が進められましたが、その援助となったのは、当時萩原先生が修行していた講道館の門弟の方々でした。
しかし天神真楊流の一部の方々とは、意見の相違から対立することになってしまいます。
天神真楊流は、江戸時代より柔術と接骨術を伝承していた流派であり、明治中期には東京府内だけで22か所の道場が存在していたと記録されていて、講道館柔道の基礎の一つとなった流派でもありました。
天神真楊流と講道館柔道の両方の門弟である萩原先生は、講道館柔道と天神真楊流の理解者に自ら公認請願に関するパンフレットを作成し全国に配布するとともに会議を重ねながら賛同者を増やしていき、ついに柔道接骨術公認期成会を発足させたのでした。
公認当時は、柔道整復術資格試験を受ける条件として、講道館柔道三段以上の者とされたこともあり、柔道整復師という国家資格の名称となるきっかけとなると同時に、これらの活動は、講道館柔道のその後の普及発展にも大きな役割を果たしました。
つづく・・・
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